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腹が立つったらありゃしない! 昭和の日本語は味わい深い

「腹が立つったらありゃしない!」

最近、こんな言い回しを耳にすることが少なくなった気がします。

昭和のドラマや落語ではおなじみの表現ですが、今の若者なら「マジでムカつく!」「めっちゃ腹立つ!」でしょうか。

しかし、この「〜ったらありゃしない」、よく考えるとなかなか不思議な日本語です。

今回は、このちょっと古風な言い回しについて考えてみます。

「ありゃしない」って、何がないの?

例えば、こんな表現があります。

  • 腹が立つったらありゃしない!
  • うるさいったらありゃしない!
  • 情けないったらありゃしない!
  • かわいいったらありゃしない!

いずれも「ものすごく〜だ」という意味です。

ところが「ありゃしない」は「ありはしない」が縮まったもの。

つまり、否定形なんですね。

腹が立っているのに「ありはしない」とは、これいかに?

実は「これほど腹が立つことは、ほかにありはしない」というような、程度の甚だしさを強調する表現なのです。

もっとも、普段こんな文法を意識して使っている人はいないでしょう。

「といったら」だけでも十分伝わる

そもそも「〜といったら」だけでも、感情を強調できます。

「昨日の暑さといったら!」

これだけで、相手は「よほど暑かったんやな」と理解してくれます。

そこへ「ありゃしない」を付け加えるわけです。

「昨日は暑いったらありゃしない!」

もう、暑さに対する不満があふれ出しています。

単に「非常に暑かった」と説明するより、ずっと感情が伝わってきませんか?

昭和の日本語には芝居っ気がある

この表現の面白さは、少し大げさなところです。

「腹が立つったらありゃしない!」

と言われると、怒っている本人の表情まで浮かんできます。

腰に手を当てて、眉間にしわを寄せているような……。

落語の登場人物が言っても違和感がありません。

一方、現代の「マジでムカつく!」は、短くて直接的です。

どちらが優れているという話ではありませんが、昔の言い回しには、感情をちょっと芝居がかった形で伝える面白さがあります。

日本語は否定形で感情を強調する?

考えてみると、日本語には否定形を使って感情を強調する表現がたくさんあります。

「うれしくてたまらない」

「面白くてしょうがない」

「気になって仕方がない」

どれも否定形なのに、伝えたいのは感情の強さです。

英語でも I can’t stand it!(我慢できない!)のように否定形で強い感情を表すことがあります。

言葉というのは、なかなか面白いものですね。

こういう日本語、残ってほしいですね

言葉は時代とともに変わります。

「超」「めっちゃ」「マジ」「ヤバい」など、短い言葉で感情を伝えるのも便利です。

ただ、「〜ったらありゃしない」のような、ちょっと回りくどくて大げさな表現にも独特の魅力があります。

意味だけでなく、話し手の表情や声の調子まで想像できるからです。

こういう日本語が少しずつ使われなくなるのは、寂しい気もします。

もっとも、若い人に無理やり使ってもらう必要はありません。

昭和世代が堂々と使い続ければいいのです。

「最近の若者は『ヤバい』ばっかりで、語彙が少ないったらありゃしない!」

……なんて言ってしまうと、今度は若者から、

「昭和の人って、説教くさいったらありゃしない!」

と返されそうですね(笑)。

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ファンと推しとタニマチ。結局、何が違う?

最近、やたらと「推し」という言葉を耳にします。

「私の推しは〇〇です」
「週末は推し活で忙しい」
「推しのためなら何でもできる!」

なんとも楽しそうです。

ただ、以前から気になっていたことがあります。

昔から「ファン」という言葉があるのに、なんでわざわざ「推し」と呼ぶんでしょう?

さらに、昔から「タニマチ」という言葉もあります。

こちらは、どちらかというとお金持ちのおじさんが登場するイメージです。

ファン、推し、タニマチ。

どれも誰かを応援することに関係する言葉ですが、いったい何が違うのでしょう。

ちょっと考えてみました。

ファンと推しは何が違う?

まず「ファン」。

阪神タイガースが好きなら阪神ファン。サザンオールスターズが好きならサザンのファン。

別に球場に行かなくても、CDを全部持っていなくても構いません。

「好きです」と言えば、それでファン成立です。

では「推し」は何が違うのでしょう?

「推し」は、もともとアイドル文化などで使われていた言葉です。「推しメン」、つまり自分が特に応援しているメンバーという意味ですね。

今では俳優、スポーツ選手、アニメのキャラクター、さらには食べ物や文房具まで「推し」と呼ぶことがあります。

もう何でもありですね。

どうやら「推し」には、好きという気持ちに加えて、積極的に応援することを楽しむという意味合いが強いようです。

コンサートに行く。グッズを買う。SNSで情報を発信する。

さらに推しの誕生日を祝ったり、グッズを並べて写真を撮ったりします。

なるほど。応援そのものが趣味になっているわけですね。

ただ、ここで一つ疑問が湧きます。

昔の熱狂的なファンだって、同じことをしていたのでは?

好きな歌手のポスターを部屋中に貼ったり、コンサートを追いかけたり。

今なら立派な推し活です。

つまり、行動そのものが突然生まれたわけではありません。名前が変わり、楽しみ方が広がったということなのでしょう。

ここでタニマチの登場です

さて、もう一つの言葉が「タニマチ」です。

タニマチとは、もともと相撲界で力士を支援する後援者のことです。

語源には諸説ありますが、大阪の谷町に住んでいた医師が力士を無料で診察していたことに由来するという説が有名です。

タニマチは、単に相撲を見て楽しむだけではありません。

力士に食事をごちそうしたり、活動資金を援助したり、人脈を紹介したりします。

つまり、応援する相手の成功を、お金や人脈で支える人です。

ここで、なんとなく違いが見えてきました。

  • ファン: 好きだから応援する
  • 推し活: 応援すること自体を楽しむ
  • タニマチ: 相手の活動を具体的に支える

もちろん、きれいに分類できるわけではありません。

それにしても、タニマチと聞くと、どうしても高級料亭で力士にごちそうしている社長さんを想像してしまいます。

少なくとも、ペンライトを振っている姿は思い浮かびません(笑)。

今の推し活はタニマチに似ていませんか?

ここで、ちょっと面白いことに気づきました。

最近の推し活には、ずいぶんお金がかかるものもあります。

コンサート、グッズ、ファンクラブ、ライブ配信への投げ銭、クラウドファンディング……。

あれ?

これって、昔のタニマチと似ていませんか?

もちろん、グッズを買うことと、活動資金を直接援助することは同じではありません。

それでも、好きな人の活動を経済的に支えるという点では共通しています。

昔は、力士に100万円を援助できるような人は限られていました。

しかし、今なら1,000人が1,000円ずつ出せば100万円になります。

インターネットのおかげで、誰でも少額から支援に参加できるようになりました。

言ってみれば、タニマチの大衆化です。

ただし、昔ながらのタニマチは力士本人と個人的な付き合いがあることが多いのに対し、推し活では相手が自分の存在を知らないことも珍しくありません。

この距離感は大きな違いですね。

「推し活」という言葉を作った人は商売上手?

もう一つ気になることがあります。

「推し活」という言葉が広まったことで、応援するためにお金を使うことが、以前より自然になったのではないでしょうか。

昔なら、同じCDを何枚も買う人を見て、

「なんで同じものを何枚も買うん?」

と思ったかもしれません。

ところが、今なら、

「推し活だから」

で、なんとなく説明がついてしまいます。

名前がつくことで、一つの文化として認識されるわけですね。

企業にとってもありがたい話です。

ファンはグッズを買い、イベントに参加し、SNSで宣伝までしてくれます。

しかも、本人は喜んでお金を使っています。

なかなかよくできたビジネスです。

もっとも、好きな気持ちと使った金額は必ずしも比例しないはずですが。

タニマチは「推し活」と言わない?

最後に、どうでもいいようで気になることがあります。

若い女性がアイドルにお金を使うと「推し活」。

お金持ちの社長が力士にお金を使うと「タニマチ」。

やっていることには似た部分があるのに、言葉が変わるだけで印象がずいぶん違います。

「週末は推し活です!」

と言えば、なんとなく楽しそうです。

「週末はタニマチ活動です!」

と言われると、急に宴席の準備でも始まりそうです(笑)。

結局、ファンも推しもタニマチも、誰かを応援したいという気持ちは共通しています。

違うのは、その応援の仕方と、相手との関係なのでしょう。

さて、私自身はどうでしょう。

好きな歌手もいますし、応援しているスポーツ選手もいます。

でも、グッズを大量に買うこともなければ、活動資金を援助することもありません。

どうやら、昔ながらの普通のファンということになりそうです。

もっとも、タニマチになろうにも、先立つものがありません。

残念ながら、こちらは気持ちだけでは成立しないようです(笑)。

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なぜ今、たまごっちやシール帳が大流行? 「平成レトロ」が若者に刺さる理由

最近、街のお店やSNSを見ていると、

「これ、昔流行ったやつちゃうん?」

と思うものが、次々と人気になっています。

代表的なのがたまごっち。

そしてもうひとつが、ぷっくりした立体シールを集めてシール帳に貼ったり、友達と交換したりするシール文化です。

特に「ボンボンドロップシール」は大人気で、品切れになるお店も珍しくありません。

ところが、ここでひとつ面白いことがあります。

実はボンボンドロップシールそのものは、昔の商品が復刻されたわけではありません。

比較的新しい商品です。

それなのに、

「懐かしい!」

と感じる大人がたくさんいる。

なぜでしょうか。

そこには、今の「平成リバイバル」を読み解くヒントがありそうです。


ボンボンドロップシールは「昔のシール」ではない

まず、ちょっと整理しておきましょう。

今大人気のボンボンドロップシールは、平成時代に売られていた商品がそのまま復刻されたものではありません。

でも、

  • ぷっくりした立体感
  • キラキラしたデザイン
  • キャラクター
  • シール帳に集める
  • 友達と交換する

という遊び方を見ると、1990年代から2000年代に小学生だった人には猛烈に懐かしく感じられます。

メーカーへの取材記事によると、ボンボンドロップシールは2026年2月時点で累計出荷1500万枚に達し、本来の子どもだけでなく、かつてシール交換をしていた20〜30代にも人気が広がっています。

つまり、

「昔の商品が戻ってきた」のではなく、「昔の遊び方が現代の商品で復活した」

と考えた方が近いんですね。


たまごっちは本当に帰ってきた

一方、たまごっちは正真正銘のリバイバル組です。

初代たまごっちが発売されたのは1996年。

当時は社会現象と言っていいほどの大ブームになりました。

学校に持って行って先生に怒られた人もいるでしょう(笑)。

その後も何度かモデルチェンジを繰り返してきましたが、現在バンダイ自身が**「第四次ブーム」**と呼ぶほど人気が再燃しています。

2025年に発売された「Tamagotchi Paradise」は、予約数が前作の4倍を超えました。

さらに、たまごっちは2025年7月末、世界累計出荷数1億個を突破しています。

すごいですよね。

発売から約30年。

もはや一発屋どころか、立派な長寿キャラクターです。


理由① 昔の子どもが「買える大人」になった

まず一番分かりやすい理由です。

1990年代後半から2000年代にシールやたまごっちで遊んでいた子どもたちは、今では20代、30代、40代になっています。

昔なら、

「お母さん、これ買って!」

と言わなければ買えませんでした。

ところが今なら、

「懐かしい!買お!」

で済みます。

自分のお金がありますから(笑)。

こうした「子ども向けの商品を楽しむ大人」は、近年**キダルト(Kid+Adult)**と呼ばれています。

たまごっちの現在のブームについても、バンダイは子どものころ遊んだ大人、つまりキダルト層が大きな役割を果たしていると説明しています。

これはメーカー側からすれば非常に魅力的な市場でしょう。

子どもより購買力がある。

しかも「思い出」という強力な付加価値までついています。


理由② 大人には「懐かしい」、子どもには「新しい」

平成リバイバルの面白いところはここです。

たとえばシール帳を見た30代の人は、

「あったあった!」

となります。

ところが今の小学生にとっては、

「なにこれ、かわいい!」

です。

同じものなのに、

大人にはノスタルジー、子どもには新商品。

これ、かなり強いですよね。

普通の商品は年齢とともに顧客が入れ替わります。

ところがリバイバル商品は、

「昔好きだった人」

と

「初めて見る人」

を同時に顧客にできるわけです。

たまごっちも同じです。

1996年の第1次ブームを知っている40〜50代。

2000年代の通信たまごっちを知っている20〜30代。

そして初めてたまごっちを見る現在の子ども。

3つの世代が同じ商品を楽しめる。

メーカーが「ノンジェネレーション玩具」と呼ぶのも納得です。


理由③ SNSとめちゃくちゃ相性がいい

ここは昔との最大の違いかもしれません。

昔のシール帳は、

「なあなあ、私のシール帳見る?」

と友達に見せるものでした。

見せられるのはせいぜい数人です。

ところが今なら、

写真を撮って、

TikTok。

Instagram。

YouTube。

一瞬で何万人にも見てもらえます。

しかもボンボンドロップシールのような、

「ぷっくり」

「キラキラ」

「透明感」

のある商品は、写真や短い動画との相性が抜群です。

たまごっちも同じです。

最近はゲームとして遊ぶだけでなく、バッグなどにつけてファッション小物として楽しむ人も増えています。

つまり昔なら、

「遊ぶもの」

だったのが、今では、

「遊ぶ+集める+身につける+撮る+投稿する」

になったんですね。

商品ひとつの楽しみ方が増えています。


理由④ デジタル全盛だからこそ「モノ」が楽しい

これも面白いところです。

現在は、

ゲームもスマホ。

音楽もスマホ。

写真もスマホ。

友達との会話もスマホ。

何でも画面の中に入っています。

だから逆に、

シールを貼る。

シール帳をめくる。

友達と交換する。

たまごっちをバッグにつける。

といった実物を触る遊びが新鮮に感じられるのではないでしょうか。

これはレコードやカセットテープが若者の間で人気になっている現象とも少し似ています。

便利になればなるほど、ときどき人間は不便なものに惹かれる。

なんとも不思議なものです。


理由⑤ 「平成」がレトロになってしまった

そして個人的に一番衝撃なのがこれです。

平成がもう「レトロ」なんです。

昭和生まれの人間からすると、

「いやいや平成って、ついこの前やん!」

と言いたくなります(笑)。

しかし平成元年は1989年。

もう37年前です。

1996年発売の初代たまごっちですら、2026年で30周年です。

そう考えると、若い世代から見れば平成初期や2000年代前半が「昔」なのは当然なんですね。

以前は「昭和レトロ」がブームになりました。

喫茶店。

クリームソーダ。

レコード。

フィルムカメラ。

それと同じように、今度は平成の文化が「レトロでかわいいもの」として再評価され始めています。

シール帳。

たまごっち。

ガラケー。

プリクラ。

キャラクター文具。

デコ文化。

我々が普通に使っていたものが、若者から見ると「エモい」わけです。

時代って恐ろしいですね(笑)。


「懐かしい」だけではヒットしない

ただし、何でも復刻すれば売れるわけではありません。

ここは重要です。

現在ヒットしているものを見ると、単純に昔の商品をそのまま復刻しているだけではありません。

たまごっちなら、新しい機能や現代的なデザインが加えられています。

シール文化なら、SNSで映えるデザインになっています。

つまり、

昔の良さ × 現在の遊び方

になっている。

この組み合わせが強いんでしょうね。

昔の商品をそのまま出すのではなく、

「昔を知らない人でも楽しめるように作り直す」。

マーケティングとして見ても非常に興味深いところです。


世代が違うのに、同じ「かわいい」を共有している

今回のブームを単なる

「昔懐かしブーム」

と考えてしまうと、ちょっともったいない気がします。

現在起きているのは、

親世代、大人になった平成の子どもたち、そして今の子どもたちが、同じ「かわいい」を共有している現象

なのではないでしょうか。

しかも、それをつないでいるのがSNSです。

昔、教室の片隅で数人の友達とやっていたシール交換が、30年後にはSNSを通じて全国規模のブームになる。

そう考えるとなかなか感慨深いものがあります。

そしてもうひとつ。

今の若者が平成を「レトロ」と呼んでいるということは、そのうち、

「2020年代レトロ」

なんて言われる日も来るのでしょう。

そのころにはきっと、

「昔はスマホっていう板みたいなものを指で触ってたらしいで」

なんて言われているかもしれません。

……いや、それはさすがにまだ先か(笑)。

でも、今流行しているものを見ていると、

流行は消えるのではなく、形を変えて何度も戻ってくる。

そんなことを、たまごっちや一枚のシールが教えてくれているような気がします。

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「国谷裕子さんが日銀総裁を論破!」――いや、この人選は信じてまうやろ

先日、東京大学の学長選出に関するニュースを読んでいました。すると、そこに国谷裕子さんの名前が出てきました。

「あれ? この名前、最近どこかで見たぞ……」

しばらく考えて思い出しました。

そうそう。

少し前にネットで、

「国谷裕子さんが日銀総裁の植田さんと議論して論破した!」

みたいな記事を読んだのです。

「へえ〜、国谷さん、植田総裁と対談したんや」

と思って、そのまま読んでいました。

ところが途中から、どうも様子がおかしい。

金融の話から、だんだん

「こんな方法で資産を増やせます」

みたいな話になってくる。

ん?

ちょっと待て。

これ、投資の勧誘やん。

調べてみると、やっぱりフェイクニュースでした。


でも、これ、人選がうますぎる

あとから考えると、なかなか巧妙です。

国谷裕子 × 植田和男・日銀総裁

この組み合わせ。

ありそうなんですよ。

国谷裕子さんといえば、長年NHKの「クローズアップ現代」で政治や経済、社会問題について鋭い質問をしてきたキャスター。

一方の植田さんは日本銀行の総裁です。

この二人が金融政策について議論していると言われても、

「まあ、ありそうやな」

と思ってしまう。

これがもし、

「明石家さんま、日銀総裁を金融政策で完全論破!」

だったらどうでしょう。

「いや、何があったんや」

となります。

たぶんクリックはするけど(笑)。

でも、少なくとも「本当かな?」とは思うでしょう。

ところが国谷さんだと、妙にリアルなのです。


「論破」という言葉もズルい

さらに、

「国谷裕子さんが植田総裁にインタビュー」

だけなら、それほど読みたくなりません。

でも、

「国谷裕子が日銀総裁を論破!」

と言われると、

「え? 何を言ったん?」

と気になります。

さらに、

「植田総裁が答えに詰まった」

「スタジオが騒然」

「放送では語られなかった真実」

なんて書かれたら、

そこまで言うなら、ちょっと読んでみよか。

となる。

この「ちょっと読んでみよか」が相手の狙いなんでしょうね。


最初から「投資しませんか?」とは言わない

ここも上手です。

最初の画面に、

「絶対儲かる! 今すぐ10万円振り込め!」

と書いてあったら、

いやいやいや。

怪しすぎるやろ。

となります。

ところが、最初は普通のニュース記事っぽい。

有名人が登場する。

経済について語る。

日本の将来について語る。

そして、

「では、私たちは自分の資産をどう守ればいいのでしょうか?」

みたいな話になって……

気がつくと、

投資サービスの説明を読んでいる。

ニュースを読んでたんちゃうんかい。


フェイクニュースは「全部ウソ」ではない

ここが一番大事です。

フェイクニュースというと、

最初から最後まで全部デタラメ

みたいなものを想像しませんか?

でも、それだったら意外と見破りやすい。

今回のような話が怖いのは、本物をたくさん混ぜてくることです。

国谷裕子さんは本当にいる。

植田和男さんも本当に日銀総裁。

国谷さんが経済について質問しても不思議ではない。

植田総裁が金融政策について話すのも当たり前。

そこへ、

「二人がこんな議論をした」

というウソをポンと入れる。

すると全体が本物っぽく見えてしまう。

言ってみれば、

本物の材料で作ったニセモノ。

これはなかなか見抜きにくい。


「自分はだまされへん」が危ない

私もネットは長年使っていますし、投資の記事もよく読みます。

怪しい投資話なんか、

「そんなもん、すぐ分かるわ」

と思っていました。

でも今回、普通に途中まで読みました(笑)。

考えてみれば、詐欺をする側だって、

「見るからに怪しい詐欺広告」

を作るわけがありません。

一生懸命、

「詐欺に見えない詐欺広告」

を作っているわけです。

だから、

「自分は大丈夫」

だけでは、あまり対策にならないんですね。


高校生のみなさんにも関係あります

「投資なんてまだしないから、自分には関係ない」

と思うかもしれません。

でも、この仕組みは投資だけではありません。

SNSで、

「有名人がこう言った」

「○○大学の研究で証明された」

「テレビでは報道できない真実」

「これを知っている人はわずか1%」

なんて投稿を見たことはありませんか?

そこで大切なのは、

そのページの中だけで本当かどうかを判断しないこと。

いったん外に出る。

Googleなどで人物名や出来事を検索してみる。

今回なら、

「国谷裕子 植田総裁」

と検索すればいい。

本当に有名キャスターが日銀総裁をテレビで論破するような出来事があったのなら、他の報道機関でも何か見つかるはずです。

何も出てこなかったら、

「あれ?」

と疑ってみる。

これだけでも、かなり違います。


AI時代は「それっぽい」が大量生産できる

そして、これからもっと厄介になります。

AIを使えば、自然な文章も作れる。

画像も作れる。

動画まで作れる。

つまり、

「なんか本物っぽい」

というものを作るハードルが、どんどん下がっています。

だからこれから必要なのは、

「ウソを一発で見抜く特殊能力」

ではありません。

そんな能力、たぶん誰にもありません。

必要なのは、

「ちょっと待てよ」と確認する習慣。

これです。


今回、東大のニュースで本物の国谷裕子さんの名前を見て、

「あ、そういえば偽物の国谷さんの記事を読んだな」

と思い出しました。

そして改めて考えてみると、

私が引っかかりかけた最大の理由は、

人選がうますぎたこと。

「国谷裕子 × 日銀総裁」

いや、それはありそうやん。

だからこそ怖い。

フェイクニュースで気をつけるべきなのは、

「見るからに怪しい話」ではなく、「ありそうな話」なのかもしれません。

そして最後にもう一つ。

もし記事を読み進めていて、

なぜか最後に投資の話になったら――

それまでどれだけ立派なことが書いてあっても、

「なんでやねん!」

と一度ツッコんでから、検索してみましょう。

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「誰とも話さなくても生きられる社会」は、本当に便利なのか?

最近、スーパーで買い物をしていて、ふと思うことがあります。

商品をカゴに入れる。
セルフレジでバーコードを読む。
スマホで決済する。
袋に詰めて帰る。

あれ? 今日、店員さんと一言もしゃべってないぞ。

考えてみれば、スーパーだけではありません。

電車はICカード。
銀行はネットバンキング。
飲食店はタブレットやスマホで注文。
宅配便は置き配。
ホテルは自動チェックイン。
本も服も日用品もAmazonなどのネット通販で買える。

少し前まで、人間にお願いしていたことが、どんどん機械やスマホに置き換わっています。

これはもちろん便利です。

でも、ここでちょっと気になることがあります。

私たちは便利さと引き換えに、「人と話す機会」まで手放しているのではないでしょうか。

昔は、生活するだけで誰かと話していた

昔の買い物を思い出してみます。

「これ、ください」

「袋に入れますか?」

「今日は寒いですね」

「ありがとうございました」

別に大した会話ではありません。

駅で切符を買うにも駅員さんと話す。銀行へ行けば行員さんと話す。食堂へ行けば店員さんに注文する。

つまり昔は、

生活するためには、ある程度、人と話さざるを得なかった

のです。

面倒といえば面倒です。

ところが、その「面倒」の中に、

「こんにちは」
「ありがとう」
「今日は暑いですね」

という小さなコミュニケーションも入っていました。

私たちは「面倒」をなくしたつもりが、その中に入っていた人との接点まで一緒になくしてしまったのかもしれません。

日本人の約4割が何らかの孤独感

これは単なる印象論でもありません。

内閣府が2025年に実施し、2026年4月に公表した全国調査では、何らかの孤独感がある人は約4割にのぼりました。

さらに、同居していない家族や友人と、

「直接会って話すことが全くない」

という人も1割程度います。

一方、別の内閣府調査では、「孤独・孤立を身近に感じる」と答えた人が48.7%でした。

もはや孤独は、一部の特殊な人だけの問題とは言えそうにありません。

「雑談なんて意味ないやん」は本当か?

ここで意外に重要なのが雑談です。

「今日は暑いですね」

「阪神、昨日負けましたなあ」

「この野菜、高くなりましたね」

こんな会話をしたからといって、何か重要な情報が得られるわけではありません。

仕事が進むわけでもありません。

効率という観点だけなら、

ほぼゼロです(笑)。

ところが、人間にとってはそうでもないらしいのです。

日本の中高年867人を対象とした研究では、コロナ禍で雑談の機会が減ったと回答した人は57%でした。そして、雑談が減った人では、減らなかった人に比べて心理的ウェルビーイングが低く、孤独感が強いという関連が確認されています。

つまり、

役に立たないように見える会話が、実は役に立っていた。

なんとも人間らしい話です。

「効率化のパラドックス」

現代社会の変化を整理すると、こんな感じでしょうか。

昔は、

不便
↓
人に頼む
↓
会話する
↓
人との接点ができる

現在は、

デジタル化
↓
便利になる
↓
人に頼まなくてよくなる
↓
会話しなくなる
↓
偶然の人間関係も減る

もちろん昔に戻ればいい、という話ではありません。

私もセルフレジを使います。

ネット通販も使います。

いまさら銀行の窓口へ行って、

「ネットバンキングは人間味がない!私は通帳とハンコで勝負する!」

なんて言うつもりもありません(笑)。

便利なものは便利なのです。

問題は、便利になったことで失われたものに、私たち自身が気づきにくいことなのだと思います。

SNSでつながっているから大丈夫?

そこで、

「いやいや、今はLINEもSNSもあるやん」

という反論が出てきます。

確かにその通りです。

むしろ人類史上、これほど簡単に他人と連絡できる時代はなかったでしょう。

でも、

SNSで100人の投稿を見ることと、

近所のお店で、

「いつものですか?」

「そうそう、それ」

と話すことは、どうも同じではなさそうです。

前者は「情報との接触」ですが、後者には自分がそこに存在していて、相手から認識されているという感覚があります。

だから、親友との深刻な相談だけが人間関係なのではありません。

顔見知りの店員さん、近所の人、散歩中によく会う人。

こうした「友達というほどでもない人」との小さな交流も、社会とのつながりを作っているのでしょう。

そして次にやって来たのがAI

ここで話はさらに面白くなります。

これまでのデジタル化は、

「店員さんと話さなくても買い物できる」

という程度でした。

ところがAIが登場しました。

調べもの → AI
旅行の計画 → AI
文章を書く → AI
勉強を教えてもらう → AI
相談する → AI
暇なときに話す → AI

これまでなら、

「ちょっとこれ、どう思う?」

と誰かに聞いていたことまで、一人で完結できるようになります。

AIはとても便利です。

私自身もこうして使っています(笑)。

しかし、セルフレジと同じことが、もっと大きな規模で起きる可能性があります。

人に聞かなくてもいい。
人に頼らなくてもいい。
人と話さなくてもいい。

技術的には素晴らしい社会です。

でも、それがそのまま人間にとって幸せな社会なのかは、また別の問題です。

「一人でいる」と「孤立している」は違う

ここは区別しておきたいところです。

一人でいること自体が悪いわけではありません。

人付き合いが苦手な人もいるでしょう。

休日くらい誰にも会わず、一人で本を読んだり映画を見たりしたい。

私もその気持ちはよく分かります。

問題は、

「一人でいたいから、一人でいる」

ことと、

「気がついたら、誰とも話さなくなっていた」

ことは全く違うということです。

後者が、本人も気づかないまま増えていくとしたら、これは個人だけの問題ではありません。

便利さを捨てる必要はない

では、セルフレジをやめるべきなのでしょうか。

そんな必要はないと思います。

ネット通販もAIも、便利なら使えばいい。

その代わり、

コンビニで「ありがとう」と言う。

散歩中に近所の人に挨拶する。

行きつけのお店を一つ作る。

たまには友人に電話する。

そんな小さな「非効率」を、意識して残しておく。

これからは、そんなことが意外に大切になるのかもしれません。

最後に

人類は長い時間をかけて、

「人に頼らなくても生きられる社会」

を作ってきました。

切符を買うのも、買い物をするのも、銀行振込するのも、旅行を予約するのも、一人でできるようになりました。

そしてAIによって、その範囲はさらに広がろうとしています。

それは間違いなく進歩です。

ただ、一つだけ考えておきたい。

昔の「不便」の中には、

人に尋ねること、
人に頼ること、
人と話すこと、

も含まれていました。

だからこれから必要なのは、便利さを捨てることではなく、

便利になった社会の中に、あえて少しだけ「人と関わる余白」を残すこと

なのではないでしょうか。

セルフレジを使って買い物を終えたあと、

「ありがとうございました」

と店員さんに一言。

効率だけ考えれば、なくても困らない言葉です。

でも案外、これからの社会で大切になるのは、

そんな「なくても困らない会話」なのかもしれません。

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前回、フランス語の不思議について書きました。

英語では、

I eat.
私は食べます。

I am eating.
私は食べています。

と、現在形と現在進行形をきちんと区別します。

ところがフランス語では、どちらも基本的には、

Je mange.

でOK。

「食べてる最中かどうか?」

そんなもん文脈で分かるやろ。

どうもフランス語は、時制については意外とおおらかなようです。

ところがDuolingoを続けていると、さらに衝撃的な問題が出てきました。

「今朝からずっと水を飲んでいます」

出てきた英文がこちら。

I have been drinking a lot of water since this morning.

「私は今朝からずっと、たくさん水を飲んでいます」

英語を勉強した人なら、

have been drinking

を見て、

「おお、現在完了進行形やな」

と分かります。

中学・高校時代に苦労した、あれです。

have + been + ~ing

過去のある時点から現在まで、ずっと動作が続いている。

だから、

I drink.

でも、

I am drinking.

でもなく、

I have been drinking.

英語はここをきっちり区別します。

ではフランス語ではどう言うのでしょう。

答えは、

Je bois beaucoup d’eau depuis ce matin.

……。

Je bois.

これ、普通の現在形です。

「私は飲みます」です。

ちょっと待て。

英語がわざわざ、

have + been + drinking

と3段重ねにして表現しているものを、

bois

だけで済ませるんかい!

フランス語には現在完了形がないの?

正確には、そういうわけではありません。

フランス語には、

passé composé(複合過去)

という時制があります。

たとえば、

J’ai mangé.

「私は食べました」

です。

形を見ると英語の、

I have eaten.

にそっくりです。

フランス語の ai は avoir、つまり英語の have に近い動詞。

だから構造だけ見ると、

J’ai mangé.
I have eaten.

よく似ています。

ところが、この2つは使い方が同じではありません。

フランス語の passé composé は、現代フランス語では普通に「過去に起きたこと」を表すために使います。

つまり英語の、

I ate.

に相当する場面でも、

J’ai mangé.

を使います。

ですから、

「英語の現在完了形 = フランス語の複合過去」

と単純に覚えると、ややこしくなります。

では「今朝からずっと」はどこへ行った?

ここで重要なのが、

depuis

です。

「~以来」「~からずっと」という意味があります。

先ほどの、

Je bois beaucoup d’eau depuis ce matin.

なら、

depuis ce matin

=「今朝からずっと」

です。

つまりフランス語としては、

Je bois
私は飲んでいる

+

depuis ce matin
今朝からずっと

これで、

「今朝からずっと飲んでいる」

と分かるわけです。

なるほど。

言われてみれば確かに分かります。

でも英語を習った身としては言いたくなります。

「have been drinking はどこ行ったんや!」

「10年間ここに住んでいます」も現在形

もう一つ比べてみましょう。

英語なら、

I have lived here for ten years.

「私はここに10年間住んでいます」

過去に住み始めて、今も住んでいる。

だから現在完了です。

ところがフランス語なら、

J’habite ici depuis dix ans.

です。

J’habite

は普通の現在形。

「私はここに住んでいます」

そこに、

depuis dix ans

「10年前からずっと」

をくっつける。

それだけ。

フランス語としては、

「10年前からって言うてるんやから、今も住んでるって分かるやろ」

ということなのでしょう。

またそれか!

英語は動詞、フランス語は文脈?

ここまで比べると、両言語の違いが見えてきます。

英語では、

I eat.
I am eating.
I have eaten.
I have been eating.

と、動詞の形を変えることで時間関係をかなり細かく表します。

一方、フランス語では英語なら進行形や現在完了になる場面でも、

Je mange.

のような現在形と、

maintenant(今)

depuis(~からずっと)

などを組み合わせて表現できる場合があります。

英語が、

「動詞の形を見れば分かるようにしときました」

なら、

フランス語は、

「周りの言葉もちゃんと読んでや」

という感じでしょうか。

でも「今日」には異様にこだわる

ここで前回の記事に戻ります。

フランス語で「今日」は、

aujourd’hui

です。

歴史的な成り立ちをざっくり見ると、

「今日という日の、この日」

みたいな、えらく念入りな表現です。

「今日」というだけなのに、

aujourd’hui

一方、

「今朝からずっと水を飲み続けています」

という複雑な時間関係になると、

Je bois … depuis ce matin.

現在形+depuis。

……。

そこは簡単に済ますんかい!

でも、考えてみれば英語のほうが不思議なのかもしれない

ただ、ここで少し見方を変えてみます。

Je bois beaucoup d’eau depuis ce matin.

「私は水を飲んでいる。今朝からずっと」

これで意味は十分伝わります。

そう考えると、

I have been drinking …

と、

have を出して、

been を出して、

さらに drinking にして……。

フランス人からすれば、

「なんでそこまで動詞をいじるねん?」

と思うのかもしれません。

私たちは学校で英語を習ったので、英語の仕組みを「普通」だと思っています。

でも外国語をもう一つ勉強すると、その「普通」が崩れてきます。

英語には英語の理屈があり、

フランス語にはフランス語の理屈がある。

どちらが合理的というより、

時間をどう言葉にするかという発想そのものが違う

のでしょう。

そして今日もフランス語を勉強する

というわけで今回分かったこと。

英語:

I have been drinking a lot of water since this morning.

フランス語:

Je bois beaucoup d’eau depuis ce matin.

英語を習った人間からすると、

「現在完了進行形まで現在形で済ますんかい!」

とツッコミたくなります。

でも、それが分かってくると、フランス語が少し面白くなってきます。

そして今日もDuolingoを開く。

そう。

あの長ったらしい、

aujourd’hui

――「今日という日の、この日」に。

だから、いったいどの日やねん!

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英語は習ったことがある。でもフランス語はまったく知らない。

そんな人でも楽しめる、ちょっと不思議なフランス語のお話です。

「今日」というだけなのに、なんでそんなに長いねん

英語で「今日」は、

today

たった5文字です。

ところがフランス語では、

aujourd’hui

長い。

「今日」と言いたいだけなのに、なんだか妙に気取っています。

しかも、この aujourd’hui、歴史をたどるともっと面白い。

ざっくり分解すると、

au + jour + de + hui

という成り立ちです。

jour は「日」。

そして hui は、現在では単独ではほとんど使われませんが、もともと「今日」を意味する言葉でした。

つまり aujourd’hui は、歴史的にはざっくり、

「今日という日の、この日」

みたいな表現なのです。

……。

毎日平凡な日々が過ぎていくのに、

「今日という日の、この日」

いったいどの日やねん。

今日やろ!

そんなに「今日」にこだわるフランス語なのに……

ところが、このフランス語。

別のところでは突然、びっくりするほど大ざっぱになります。

英語では、

I eat.
私は食べます。

I am eating.
私は食べています。

この2つは明確に違います。

中学校で習いましたよね。

「be動詞+動詞のing形で現在進行形!」

テストにもよく出ました。

ところがフランス語では、

Je mange.

これだけ。

「私は食べます」という習慣にも、

「私は今、食べています」という進行中の動作にも、

基本的には同じ Je mange. を使えます。

え?

「今日」はあんなに長ったらしく言うのに、そこは一緒でええんかい!

じゃあ「今食べてる」って、どうやって分かるの?

そこは文脈で判断します。

たとえば、

Je mange tous les matins.

なら、

「私は毎朝食べます」

という習慣。

一方、

Je mange maintenant.

なら、

「私は今、食べています」

となります。

maintenant が「今」という意味なので、それで分かるわけです。

つまりフランス語としては、

「今って言うてるんやから、食べてる最中に決まってるやろ」

ということなのでしょう。

英語のように、わざわざ動詞の形まで変える必要はない。

なるほど。

合理的といえば合理的です。

でも、それなら言わせてもらいたい。

「今日」も、もうちょっと短くてええんちゃうの?

「今まさに食べてます!」なら表現できる

もちろんフランス語にも、進行中であることを強調する表現はあります。

Je suis en train de manger.

「私は今まさに食べているところです」

という感じです。

ただし、英語の I am eating. のように何でもかんでもこの形にするわけではありません。

普通なら Je mange. で十分。

「まさに今やってるんです!」と強調したいときに使います。

スペイン語とイタリア語はどうなの?

ここで面白いのが、同じラテン語をルーツにもつ仲間たちです。

スペイン語なら、

Estoy comiendo.

イタリア語なら、

Sto mangiando.

どちらも「私は食べています」。

英語の I am eating. にかなり近い専用の進行表現があります。

並べてみると、

英語:I am eating.
スペイン語:Estoy comiendo.
イタリア語:Sto mangiando.
フランス語:Je mange.

フランス語だけ、

「食べてるかどうか? そんなもん文脈で分かるやろ」

という感じです。

「今日という日の、この日」にはこだわるのに

こうして見ると、言語というのは面白いものです。

ある部分では非常に細かく区別するのに、別の部分では、

「そんなもん、分かるやろ」

で済ませてしまう。

英語を習った私たちは、

I eat.
I am eating.

を区別するのが当たり前だと思っています。

でも、それは英語のルールに慣れているだけ。

フランス語から見れば、

「なんで『今』って分かってるのに、わざわざ動詞の形まで変えるの?」

となるのかもしれません。

一方こちらから見れば、

aujourd’hui

を見るたびに思うわけです。

「今日という日の、この日……」

……。

だから、いったいどの日やねん!

外国語を勉強すると、単語や文法だけでなく、

「自分が当たり前だと思っていた言葉の仕組みは、実は全然当たり前ではない」

ということに気づきます。

これが外国語学習の面白いところなのかもしれません。

そして今日も私はDuolingoを開きます。

もちろん、

「今日という日の、この日」に。

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iPhoneの買取査定、1社目で決めたらあかん!2万円が36,200円になった話

先日、使わなくなったiPhone 14を売却することにしました。

スペックは、

  • iPhone 14
  • 128GB
  • バッテリー最大容量79%
  • 裏面、カメラ、フレームに傷あり

というもの。

決して「美品」と呼べる状態ではありません。

特にバッテリーが79%まで劣化しているので、

「まあ、そこそこ減額されるやろな」

とは覚悟していました。

ところが、最初にある買取業者へ査定をお願いしたところ、提示された金額は……

20,000円。

うーん。

こんなもんなんやろか?

バッテリー79%だから2万円?

査定結果には、

「裏面、カメラ、フレーム傷あり」
「バッテリー劣化あり(79%)」

と書かれていました。

確かに傷はありますし、バッテリーも80%を切っています。

とはいえ、iPhone 14です。

まだ普通に使えます。

そこで中古市場の相場を調べてみると、状態による差はかなり大きいものの、2万円という査定額はどうも低いように感じました。

「急いで売る必要もないし、今回はやめとこ」

ということで、丁寧に売却を断るメールを送りました。

断ったら「希望価格はいくらですか?」

すると業者から返信が来ました。

内容は、

「希望価格はいくらですか?」

というもの。

ここで、ちょっと引っかかりました。

え?

20,000円が査定結果だったんちゃうの?

こちらが「3万円」と言ったら3万円になるの?

それとも「25,000円」と言ったら25,000円?

もちろん中古品の買取で価格交渉が行われること自体は珍しいことではありません。

業者にも事情があるでしょう。

ただ、私は一度提示された20,000円という査定額に納得できなかったので、価格交渉には応じず、

「今回は売却自体を見送ります」

とお断りしました。

そしてイオシスへ

次に査定をお願いしたのがイオシスです。

同じiPhone 14です。

同じバッテリー79%です。

同じ傷があります。

さて、査定額はいくらだったでしょう?

結果は……

36,200円!

おお!

最初の査定は20,000円。

イオシスは36,200円。

その差、

16,200円です。

割合で考えると、最初の査定額より81%も高いことになります。

同じスマホですよ(笑)。

「買取相場」と「あなたのスマホの査定額」は違う

今回、改めて感じたのはこれです。

ネットで、

「iPhone 14の買取価格○○円!」

と書かれていても、それだけでは自分のスマホがいくらになるのか分かりません。

傷の程度、バッテリー状態、付属品、各業者の査定基準などによって、実際の査定額は変わります。

そして重要なのは、

業者によっても評価が違う

ということです。

今回の私のiPhoneは、その典型例でしょう。

20,000円と36,200円。

多少の違いではありません。

16,200円違えば、ちょっとええもん食べに行けます(笑)。

メルカリという選択肢も考えた

実は途中で、メルカリへの出品も考えました。

個人間売買なら、買取業者より高く売れる可能性があります。

一方で、

購入希望者とのやり取り、値下げ交渉、梱包・発送、販売手数料、商品状態をめぐるトラブル……

なども考えなければなりません。

特にスマートフォンは高額商品ですから、売った後に、

「ここにも傷があった」

「思っていた状態と違った」

なんて話になるのは避けたいところです。

その点、専門業者に36,200円で買い取ってもらえるなら、私としては十分納得できる金額でした。

ということで、今回はイオシスで売却しました。

スマホ買取は「1社目で即決しない」

今回の経験から得た教訓は、とてもシンプルです。

スマホの買取査定は、1社目で即決しない。

これに尽きます。

特に、

「思っていたより安いな」

と感じたら、その場で売る必要はありません。

もう1社査定してもらう。

たったそれだけです。

今回の私は、それだけで、

20,000円 → 36,200円

になりました。

差額は16,200円。

査定をもう1回お願いする手間に対して、なかなかのリターンです。

「こんなもんか」で売っていたら……

最初の2万円という査定を見たとき、

「バッテリー79%やし、傷もあるし、まあこんなもんか」

と思って、そのまま売却することもできました。

そうしていたら、今回の16,200円の差には気づきませんでした。

中古品の価格というものは、スーパーの商品みたいに値札が決まっているわけではありません。

「査定額=その商品の絶対的な価値」ではない。

これは覚えておいた方がよさそうです。

特にスマホのように数万円で取引される商品なら、査定先を一つ増やすだけで結果が大きく変わることがあります。

というわけで、今回の結論。

iPhoneの査定額を見て「安いな」と思ったら、その直感、案外当たっているかもしれません。

1社目で決めず、もう1社。

今回、その一手間で16,200円変わりました。

いやあ、危うく2万円で売るところでしたわ(笑)。

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「人間は脳の10%しか使っていない」

こんな話を聞いたことはないでしょうか。

私は昔から何度となく聞いた記憶があります。

「普通の人は脳の10%しか使っていない。残り90%の能力を引き出せれば、ものすごい能力を発揮できる」

なんとも夢のある話です。

さらに、

「アインシュタインは普通の人より脳をたくさん使っていた」

なんて話までくっついてくることがあります。

ところが調べてみると――。

これ、科学的な根拠のない「都市伝説」なんです。

では、いったい誰がこんな話を言い始めたのでしょう?

そして、もっと面白い疑問があります。

なぜ根拠のない話が、これほど多くの人に「常識」として知られるようになったのでしょうか。

今回は、この「脳の10%説」を材料にして、デマや都市伝説が育っていく仕組みを考えてみます。

そもそも脳は本当に10%しか使っていないのか?

結論から言えば、そんなことはありません。

脳科学の研究では、脳の大部分がさまざまな役割を持っていることが分かっています。

もちろん、脳全体が常に最大出力で一斉に活動しているわけではありません。

文章を読んでいるとき、歩いているとき、音楽を聴いているとき、眠っているとき。

それぞれ使われる場所や活動の程度は違います。

しかし、

「90%は普段まったく使われず眠っている」

という意味での「10%説」は否定されています。

脳画像研究でも、ずっと何もしていない巨大な領域など見つかっていません。

そらそうですよね。

脳は体重に占める割合からすると非常に多くのエネルギーを消費する器官です。

そんな高コストな器官の90%を、

「一応作ったけど、使ってません」

と人類がずっと頭蓋骨の中に抱えているとしたら、かなり不思議です。

では「10%」は誰が言い始めた?

ここからが面白いところです。

実は、

「この人が最初に10%と言った!」

とはっきり特定されているわけではありません。

有力なルーツの一つとして登場するのが、アメリカの著名な心理学者ウィリアム・ジェームズです。

ジェームズは20世紀初頭、人間は自分が持っている知的・身体的な可能性の一部分しか十分に活用していない、という趣旨のことを書いていました。

ここまでは、それほど変な話ではありません。

「人間にはまだ伸びしろがありますよ」

という話です。

ところが、この話が後世に伝わっていく過程で、

「能力の一部しか発揮していない」

が、

「脳の一部しか使っていない」

へと変化していった可能性が指摘されています。

そして1936年、デール・カーネギーの有名な『人を動かす』の序文で、ジャーナリストのローウェル・トーマスが、ジェームズについて「平均的な人間は潜在的な知的能力の10%しか発達させていない」という趣旨の紹介をしました。

いつの間にか、

「可能性の一部分」→「10%」→「脳の10%」

と話が具体的になっていったわけです。

数字が入ると、急に科学っぽく見えるから不思議です。

そしてアインシュタインまで登場する

さらに話は成長します。

いつの間にか、

「アインシュタインも、人間は脳の10%しか使っていないと言った」

という話まで広まりました。

アインシュタインが言ったとなれば強い。

「近所のおっちゃんが言っていた」では誰も信用してくれませんが、

「アインシュタインが言っていた」

となれば、

「へえ、そうなんや!」

となります。

ところが、この話を調査した研究者によると、アインシュタインの資料を調べても、そのような発言は確認できなかったそうです。

つまり、

「アインシュタインも言っていたらしい」

という情報自体が都市伝説だった可能性が高いのです。

デマは0から生まれるとは限らない

ここが今回一番面白いところです。

デマというと、

「誰かが最初から全部ウソを作った」

と思いがちです。

でも実際には、もっと複雑です。

今回のケースを単純化すると、

人間にはまだ発揮していない可能性がある

↓

人間は能力の一部分しか使っていない

↓

人間は能力の10%しか使っていない

↓

人間は脳の10%しか使っていない

↓

アインシュタインもそう言っていた

という具合に、少しずつ話が変化しています。

最初の話と最後の話を比べてみてください。

ずいぶん違います。

でも一段ずつ見れば、それほど大きな飛躍には見えません。

ここがポイントです。

デマは「0%の事実+100%のウソ」より、「小さな事実+解釈+推測+誇張」でできていることが多い。

だから信じてしまうのです。

何度も聞くと「知っている話」になる

もう一つ、人間には面白い性質があります。

同じ情報に何度も接すると、その情報を「本当らしい」と感じやすくなることです。

心理学では「真実性錯覚(illusory truth effect)」などと呼ばれます。

最初は、

「人間って脳の10%しか使ってないらしいで」

「ほんまかいな」

だったのが、

テレビで聞く。

本で読む。

友人から聞く。

SNSで見る。

映画にも出てくる。

するといつの間にか、

「人間が脳の10%しか使ってないのは有名な話やろ」

になってしまいます。

ここで重要なのは、

情報を何回見たかと、その情報を裏付ける証拠が何個あるかは別物

ということです。

100人が同じ話をしていても、100人全員が同じ一つの間違った情報を見ているだけかもしれません。

SNS時代には、これが猛烈な速度で起きる

昔の都市伝説は、広がるのにも時間がかかりました。

人から人へ。

本からテレビへ。

テレビから雑誌へ。

ところが今はSNSがあります。

誰かが、

「実は○○らしい」

と投稿する。

別の人が引用する。

まとめサイトが記事にする。

その記事を別の人がSNSに投稿する。

動画を作る人が現れる。

それを見た人が、

「最近よく聞くけど、○○らしいですね」

と投稿する。

最初の情報源は一つしかないのに、見た目には、

「いろいろなところから同じ情報が出ている」

ように見えます。

こうして「噂」が「みんなが知っている事実」に変わっていきます。

さらに強いのが「信じたい話」

「脳の90%が眠っている」という話には、ものすごく魅力があります。

だって、

「あなたには、まだ90%もの未知の能力があります」

と言われるわけです。

ちょっとうれしい。

「あなたの能力はだいたい今見えているくらいです」

と言われるより、こっちを信じたくなります。

人間は情報を完全に公平な機械として判断しているわけではありません。

自分が信じたい話。

自分の考えに合う話。

怒りを感じる話。

驚く話。

希望を感じる話。

こうした情報ほど受け入れやすく、誰かにも伝えたくなります。

つまりデマが広がるには、

「本当かどうか」だけでなく「人に話したくなるかどうか」

も重要なのです。

「誰が言った?」ではなく「元ネタはどこ?」

では、私たちはどうすればいいのでしょう。

ネットで怪しい話を見るたびに、すべてを調査するなんて無理です。

でも、ちょっと気になる情報に出会ったとき、私はこんな問いを持つだけでもかなり違うと思います。

「これ、元ネタはどこなんやろ?」

「有名な研究で分かっています」

→その研究はどれ?

「専門家も言っています」

→誰?

「海外では常識です」

→どこの国の、どんな資料?

「アインシュタインも言っています」

→どの本?どの講演?

こうやって一段ずつ戻っていく。

すると、

SNS
↓
まとめ記事
↓
別の記事
↓
誰かの発言
↓
出典なし

ということがあります。

「あれ? 元ネタないやん」

ここまで来れば、ずいぶん景色が変わります。

「みんな言っている」は証拠ではない

「脳の10%説」が面白いのは、誰か一人の悪意によって作られた単純なデマではなさそうなところです。

小さな解釈のズレ。

もっともらしい数字。

有名人の名前。

人間の「信じたい」という心理。

そして何度も繰り返されること。

それらが何十年も積み重なって、

「誰でも知っている話」

になりました。

これは今のSNSでも同じではないでしょうか。

情報を見た瞬間に、

「これはウソだ!」

と疑う必要はありません。

逆に、

「みんな言っているから本当だ!」

と信じる必要もありません。

ちょっとだけ立ち止まって、

「これ、最初は誰が言ったんやろ?」

と考えてみる。

そしてできれば、元の資料まで戻ってみる。

情報があふれる時代だからこそ、この小さな習慣は意外と強力です。

ところで――。

「人間は脳の10%しか使っていない」という話を、私たちはいったいどこで最初に聞いたのでしょう。

私は思い出せません。

でも「昔から知っていた」ような気がする。

ひょっとすると、それこそが都市伝説の一番怖くて、一番面白いところなのかもしれません。

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なぜ灯油は30年で約3倍になった? ガソリンとの価格差が縮んだ理由

最近、ガソリンスタンドの価格表示を見ていて、ふと疑問に思いました。

30年ほど前と比べると、ガソリンももちろん高くなっています。

でも、それ以上に値上がりしているのが灯油です。

1996年度の全国平均価格を見ると、

  • レギュラーガソリン:約106円/L
  • 軽油:約82円/L
  • 灯油:約881円/18L

でした。

灯油を1Lあたりに直すと、約49円です。

一方、2026年8月末では、

  • レギュラーガソリン:約170円/L
  • 軽油:約159円/L
  • 灯油:約2,534円/18L

となっています。

灯油は1Lあたり約141円です。

つまり30年間で、

ガソリンは約1.6倍
軽油は約1.9倍
灯油は約2.9倍

になっています。

「えっ、灯油だけほぼ3倍?」

と思いませんか。

しかも、ガソリンも軽油も灯油も、もとは同じ原油から作られています。

原油から取れる割合が大きく変わったわけでもないのに、なぜこれほど値上がり率に差が出るのでしょうか。

調べてみると、その最大のカギは意外にも、

「30年前の価格に、税金がどれだけ含まれていたか」

にありました。


まず30年前と現在を比べてみよう

分かりやすく1L単位で比べてみます。

燃料1996年度2026年8月末約30年間の変化
レギュラーガソリン106円170円約1.6倍
軽油82円159円約1.9倍
灯油49円141円約2.9倍

こうして並べると、かなり違います。

1996年当時、灯油はガソリンの半額以下でした。

106円に対して49円ですから、

灯油はガソリン価格の約46%

しかありませんでした。

ところが現在は、

170円に対して141円。

灯油はガソリン価格の8割以上まで接近しています。

昔の感覚からすると、

「灯油、高くなったなあ」

と感じるのは当然です。


同じ原油から作るのに、なぜ価格差が変わる?

原油を製油所で精製すると、沸点の違いによってさまざまな石油製品に分かれます。

おおまかには、

LPG
↓
ガソリン
↓
ナフサ
↓
灯油
↓
軽油
↓
重油

といった具合です。

ですから、

「今日は灯油だけ作ります」

というわけにはいきません。

もちろん現代の製油所では、分解や改質などによって生産量をある程度調整できます。

それでも、ガソリン、灯油、軽油は同じ原油から同時に生まれる、いわば兄弟のような商品です。

ここだけ見ると、

「原油価格が3倍なら、全部だいたい3倍になるんちゃうの?」

と思いたくなります。

ところが、小売価格には原油以外のものが入っています。

その代表が税金です。


ガソリンには昔から大きな税金が含まれていた

ここが今回の話の核心です。

ガソリン価格には、昔から揮発油税などの大きな固定額の税金が含まれていました。

一方、灯油にはガソリン税のような大きな燃料課税がありません。

この違いが、30年間の「値上がり倍率」を大きく変えて見せます。

ものすごく単純化した例を考えてみましょう。

30年前、

ガソリンが

原料50円+税金50円=100円

だったとします。

灯油は大きな燃料税がないので、

原料50円=50円

だったとします。

その後、原油高や円安などで原料部分が50円から100円になったとします。

すると、

ガソリンは

原料100円+税金50円=150円

です。

100円から150円なので、1.5倍です。

一方、灯油は、

50円→100円

なので、2倍です。

原料部分はまったく同じように値上がりしているのに、

小売価格を見ると、

ガソリン1.5倍
灯油2倍

と見えるわけです。

つまり、

固定額の税金が大きい商品ほど、原油高による値上がり率が小さく見える

のです。


30年前のガソリンは「燃料そのもの」が高かったわけではない

1996年の価格を見ると、

ガソリン106円
灯油49円

です。

価格差は57円もあります。

つい、

「当時はガソリンそのものが灯油の2倍以上の価値があった」

と思ってしまいます。

でも、そうではありません。

この価格差にはガソリン税などが大きく影響しています。

つまり30年前のガソリン価格は、

燃料そのものの価格+かなり大きな税金

でした。

一方、灯油は、

燃料そのものの価格+流通・販売コスト

に近い構造でした。

ですから灯油の49円という価格は、当時の原油価格の安さをかなり直接反映していたのです。


30年前は、とにかく原油が安かった

そしてもう一つ非常に大きいのが、1990年代半ばの原油価格です。

1995年ごろ、日本が輸入していた原油は1バレル20ドルにも満たない水準でした。

しかも当時は今より円高で、1ドル100円前後の時期もありました。

単純化すると、

原油そのものが安い
+ 円も強い

という、日本の消費者にとって非常に有利な状況だったわけです。

一方、現在は原油価格そのものが30年前よりはるかに高いうえ、円相場も当時よりかなり円安です。

日本は原油のほとんどを輸入しています。

ですから、

原油高 × 円安

のダブルパンチになります。

例えば、

1バレル20ドル × 1ドル100円

なら2,000円です。

ところが、

1バレル70ドル × 1ドル150円

なら10,500円。

もちろん実際の輸入価格はもっと複雑ですが、感覚としては、

円換算した原油価格が数倍になっている

ことが分かります。


灯油はその影響をストレートに受ける

これが灯油の値上がり率が大きくなった理由です。

ガソリン価格には大きな固定税が含まれていたため、もともとの価格が高く見えていました。

対して灯油は税負担が小さいため、昔は原油の安さがそのまま価格に現れていました。

そして原油価格が上がると、今度はその値上がりも比較的ストレートに反映されます。

つまり灯油は、

昔は「原油が安い恩恵」を強く受け、
現在は「原油高と円安の影響」を強く受けている

ということです。

だから30年間の倍率で見ると、約3倍という大きな数字になります。


軽油が約2倍なのはなぜ?

では軽油はどうでしょう。

1996年度は82円/L。

2026年8月末は約159円/L。

約1.9倍です。

ガソリンと灯油の中間くらいになっています。

これも税制が関係します。

軽油には軽油引取税があります。

つまり、

ガソリンほどではないものの、灯油よりは固定的な税負担があります。

そのため値上がり倍率も、

ガソリン:約1.6倍
軽油:約1.9倍
灯油:約2.9倍

という順番になります。

これは偶然ではありません。

「価格に占める固定税の割合」が、この違いのかなりの部分を説明しています。


では、灯油だけが特別に不足しているのか?

ここまで見ると、

「灯油の需要が増えて不足したから3倍になったのでは?」

と思うかもしれません。

もちろん石油製品ごとの需給も価格には影響します。

ガソリン、灯油、軽油はそれぞれ世界市場で別の商品として取引されています。

冬場に灯油需要が増えたり、航空燃料需要が強くなったりすれば、灯油と近い成分の価格が上昇することもあります。

ただ、30年間という長い期間で、

ガソリン1.6倍、灯油2.9倍

という違いを見る場合、まず理解しておきたいのは需給以上に、

「そもそもの小売価格に占める税金の構造が違った」

という点です。


「灯油が3倍」というより「昔の灯油がものすごく安かった」

ここまで調べてみると、見方が少し変わってきます。

「なぜ今の灯油はこんなに高いのか?」

という疑問も正しいのですが、

むしろ、

「なぜ30年前の灯油は1L約50円という安さだったのか?」

と考えた方が本質に近いかもしれません。

当時は、

原油価格が非常に安い
+ 円高
+ 灯油には大きな燃料税がない

という条件が重なっていました。

その結果、灯油の価格は原油の安さをかなり素直に反映していました。

逆にガソリンは大きな税金が上乗せされていたので、灯油ほど安くはならなかったのです。


同じ原油からできても、値段は同じようには動かない

今回の疑問で面白いのは、

「同じ原油からできるのだから、価格も同じ割合で変化するはず」

という直感が、必ずしも成り立たないことです。

商品価格は、

原油価格だけでは決まりません。

そこには、

為替
税金
精製コスト
輸送コスト
販売コスト
国内外の需給

などが加わります。

同じ原油からできた兄弟でも、小売価格になるまでの道筋が違うのです。


まとめ

約30年前と現在を比べると、

ガソリン:約1.6倍
軽油:約1.9倍
灯油:約2.9倍

になっています。

灯油だけが大きく値上がりしたように見える理由を整理すると、

① 30年前は原油そのものが非常に安かった

② 当時は現在より円高で、輸入原油がさらに安かった

③ 灯油にはガソリンのような大きな固定税がない

④ そのため原油価格と為替の変動が、灯油価格に比較的そのまま表れる

ということになります。

逆にガソリンは、昔から大きな税金が含まれていたため、原油価格が上がっても価格全体の「倍率」は小さく見えます。

つまり、

「灯油だけが異常に高くなった」というより、「30年前の灯油が原油安・円高・低税負担によって、とてつもなく安かった」

と考えると分かりやすいのです。

30年前は1L約50円だった灯油が、今では約140円。

ガソリンスタンドに並ぶ数字を見ているだけでは分かりませんが、その裏には原油価格、為替、税制という30年間の大きな経済変化が隠れています。

何気ない灯油の値札も、こうして見るとちょっとした「経済史」ですね。