人の記憶って、こんなにも“抜け落ちる”ものなのかと、思わず自分の脳を疑いたくなる出来事がありました。
小学校から高校までずっと同じ学校だった女性の同級生Yから、久しぶりに連絡がありました。
「同級生のTが、市長選に出るらしいで」
Tも私の同級生です。しかも小学生の頃には同じ空手道場に通っていたので、もちろん昔からよく知っています。
ところが話をしているうちに、Yから思いがけないことを聞きました。
「実はTとはいとこやねん。お父さん同士が兄弟で」
えっ、そうなん?
長い付き合いなのに、そんなことはまったく知りませんでした。
そして次の瞬間、私の頭に浮かんだのが、
「えっ、苗字は?……あっ、同じやわ」
という、なんとも間の抜けた気づきでした。
考えてみれば当たり前です。
Yの苗字も知っています。Tの苗字も知っています。
それなのに、何十年もの間、
「YとTは同じ苗字である」
ということを、一度も意識したことがなかったのです。
知っていることと、認識していることは違う
これが自分でも妙に面白くて、「人間の記憶ってどうなってるんやろ?」と考えてみました。
認知心理学の観点から見ると、どうやらそれほど不思議なことでもないようです。
私たちは誰かを認識するとき、その人の名前だけを手がかりにしているわけではありません。
顔、声、性格、話し方、その人と一緒にいた場所、一緒に経験した出来事……。さまざまな情報が結びついて、「その人」として記憶されています。
私にとってYは、
「小学校から高校まで一緒だったY」
です。
一方、Tは、
「小学校の頃から空手道場でも一緒だったT」
です。
それだけで二人を認識するには十分でした。
つまり、二人の苗字は知っていたけれど、二人を認識するためには苗字という情報がほとんど必要なかったのでしょう。
だから「同じ苗字」という事実にも気づかなかった。
記憶は「倉庫」ではなく「ネットワーク」
記憶というと、頭の中に巨大な引き出しがあって、そこに情報をしまっているようなイメージがあります。
でも実際には、もう少し複雑です。
認知心理学では、記憶はさまざまな情報が関連し合ったネットワークのようなものとして考えることができます。
たとえば私の中では、
T → 空手 → 小学校 → 同級生
というつながりは非常に強かったのでしょう。
一方で、
T → 苗字 → Y → 親戚
というつながりは、ほとんど使われていなかった。
ところが今回、
「YとTはいとこ」
という新しい情報が突然入ってきました。
すると、
「いとこ?」
↓
「父親同士が兄弟?」
↓
「ということは……苗字は?」
↓
「あっ、同じや!」
と、今まで使ったことのなかった記憶の経路が一気につながったわけです。
苗字を忘れていたのではありません。
知っていたけれど、そこにアクセスする必要がなかった。
認知心理学でいう「検索手がかり」という考え方で説明できる、とても身近な例だと思います。
人は「名前」で人を覚えているわけではないのかもしれない
そして、この出来事からもう一つ面白いことを考えました。
もしYとTが、最近知り合った二人だったらどうでしょう。
「Yさんは○○さん」
「Tさんも○○さん」
と苗字から覚えたのなら、
「あれ? 二人とも同じ苗字ですね」
と、すぐ気づいたかもしれません。
ところが子どもの頃から知っている二人の場合、そんな情報はなくても困りません。
顔を見ればYだと分かる。
声を聞けばTだと分かる。
昔の出来事を思い出せば、それぞれの顔が浮かんでくる。
そこにはすでに、何十年分もの「その人らしさ」が蓄積されています。
だから苗字は、人物を識別する情報としては、それほど重要ではなかったのでしょう。
そう考えると、人間の記憶というものが少し温かいものに思えてきます。
私たちが昔からの友人を覚えているのは、名簿のように「氏名」という文字情報を保存しているからではありません。
一緒に笑ったこと。
学校で過ごした時間。
空手道場で汗を流したこと。
そんな無数の経験が積み重なって、「その人」という存在を作っている。
だから、苗字が同じだという単純な事実に、何十年も気づかなかった。
知っていることと、気づいていることは違う。
そして私たちの記憶は、情報をただ保存する倉庫ではなく、人と人、出来事と出来事を「意味」で結びつけていくネットワークなのだと思います。
それにしても、小学校から知っている二人を前にして、何十年も経ってから、
「あっ、苗字同じやん」
と気づくとは。
人間の脳、なかなか面白いものです。
